地下足袋山中考 NO21

<森吉山スキー場の変遷C 山頂部スキー場開発の攻防その3>

1986(S61)92日、守る会は再度県に公開質問状を提出し、@追加補足調査に係る内容の公開要請(気象、経済効果、下部開発等)。A下部駅舎間の道路でのつなぎ込みの提案。B環森吉山麓全体を見据えた利活用と森吉山の十和田八幡平国立公園編入・国定格上げの是非を質問。同年1222日、審議会に提出された山頂部補足調査は再度そのズサンさが指摘されたが、報告は形式的なものとなった▲1224日、国土計画()が提出した事業認可申請書は、@ゴンドラ上部駅舎が下方修正。A山頂部開発は、なお調査が必要。B山頂部開発は気象等の再調査により昭和63年オープンの見込みと発表した。▲県は翌年の1987(S62)113日に事業認可申請を認可したが、守る会は、一ノ腰上部リフト駅舎位置が、コメツガ群落のど真ん中にあるため下方変更を要請。同年57日に現地合同調査(県観光物産課、県自然保護課、守る会)を実施し、一ノ腰上部リフト駅舎を1230mから1180m地点に下げ、林間コースの幅を30m以内とすることで合意した▲秋田弁護士会に依頼した「スキー場建設に伴う自然破壊の疑いに対する調査」結果がまとまった。アセスのズサンさと第1種特別地域の開発は悪()しき前例であるとする「森吉山山頂部スキー場開発に関する意見書」が、59日開催の東北弁連シンポジュームで発表された。この意見書が山頂部開発の歯止めに大きな力を発揮することになる▲1987(S62)626日、阿仁スキー場は起工式を迎えた。国土計画の三上豊第一事業本部長、佐々木知事、両町長及び関係者150人が出席。森吉スキー場も8月までに着工の予定とし12月オープンとした。阿仁スキー場は面積20ha、ゴンドラ3158(6人乗り132台)駐車場3ha(1200)、コースは全長3100m。森吉スキー場は面積30ha、高速リフト(4人乗り98)、駐車場2.5ha(1000)、コースA2500m、コースB1400m、コースC2500m。阿仁町民の「夢のスキー場が実現してうれしい」と胸の内を披露したのも、このスキー場にかけてきた期待がいかに大きいかを物語っている▲50億円の投資を見込んだスキー場の施工は国土計画系列の西部建設が実施。両町ともに国土計画からは50人程度収容できる民宿が30軒欲しいと要望され、森吉町では融資条例を50万から300万〜500万円とした。また、秋田県の「観光レクリエーション施設整備資金」を利用できることとした。森吉町は新築民宿が4軒できたが阿仁町に於いては一向に進まなかった▲森吉山スキー場初代支配人の中沢氏は、「大型スキー場開発のメリットは何か」という司会者の問いに「アクセス道路網の整備である」と誇り高らかに答えた。地域振興とは答えなかった。地元シンポジュウムの一コマであったと記憶している。12月オープンに向けスキー場アクセス道路建設のため、阿仁側は約12.5km(林道拡幅)、森吉側は約10km(過疎地域振興道路:県条例を新規に制定)25億円(2/3、町1/3)を投じた▲1987(S62)1219日、森吉山両スキー場がオープンした。オープンしたスキー場は、最大の争点であった山頂部(連瀬スキー場)は含まれず、山麓に計画されていた阿仁・森吉両スキー場の上部駅舎も、計画よりかなり下げた形となった。当日は、強風のためゴンドラ、高速リフトが止まるといった事態となったが、翌20日のオープンセレモニーは森吉側が「ザ・ガマン大会」、阿仁側が「クマとマタギとなまはげのスキー合戦」、「プロスキーヤーによるデモンストレーション」等々、多彩なイベントを開催。初年度は178千人が利用した。この年は、総合保養地の確保に関する法律(リゾート法)が制定された年でもある。(2010.11.7)<次号につづく>